霧が峰によせて 上野真一郎さん

昨年の秋のことです。霧が峰高原の北側にある本沢に林道が造られました。そこは、あの田部重治が昭和5年に歩いて紀行『峠と高原』にも記したコースです。その林道が造られる以前、私は、何度かその美しい渓に足を運んでいました。

霧が峰には、ビーナスラインが造られる以前に、下から高原に歩いて上がる道が行く筋もありました。それらの道の多くは、今では歩く人も稀になり廃れていますが、そんな廃道の中でも秀逸なのが、この本沢道でした。

入り口の男女倉の集落には、そこだけ時の流れが止まったかのように、田部重治も見たかもしれない茅葺屋根の農家が朽ち果てる寸前に一棟だけ残っています。途中の林道の傍らのモミの木の下には、山ノ神の石祠が立っています。唐松の林を抜けてくれば、足元には、ササバギンランの清楚なお花が咲き、季節が巡れば、滲み出た流れにクリンソウの群落が花々を咲き誇らせていました。

笹薮に、道形が隠れてしまった箇所もありましたが、概ね、昔日の道形が見て取れるくらいに残された廃道でした。道は、登り歩めば、やがて美しいミズナラや白樺の闊葉樹の明るい林に入りました。その辺りが、最もこの廃道の美しい場所でした。私は、しばしばこの林で腰を下ろしこの渓を楽しみました。新緑の頃、紅葉の頃の美しさは、とても素晴らしいものでした。

そして、さらに進めばモミとカラマツの植林に入り道形が消える頃、薄暗い森の上に、明るい高原の一部が輝きを届けてくれています。その森の終わりには、季節には、イチヨウランが数株、目立たない花を咲かせて迎えてくれています。しかし、林道が造られて、その渓の様相は一変し、がさつな悲しい景色になりました。

積雪期なら少しはましかと思い、冬のある日に、XCスキーで滑り込んでみれば、やはりあの優しい斜面はなくなり、角ばった路肩ののり面が、どうしようもなく悲しさを感じさせました。もう、あの美しい渓の小道は、永遠に無くなってしまったのです。霧が峰は、ビーナスラインの開通に次いで、再び、そのかけがえのない宝を失ったのです。

しかし、高原には、いまもひとつ、とても大切な宝があります。それは、ヒュッテジャベルです。もし、この山小屋がなかったのなら、霧が峰の魅力は、半減してしまうことでしょう。私が、この谷間の山小屋の存在に気がついたのは、随分昔のことです。まだ、登山用品の専門店に就職して間もない頃でした。

学生時代のように、時間をかけての雪山登山もままならず、それではと、覚えたてのスキーでも使って、簡単に雪山を楽しめる場所はないかと探したところ、見つけたのが、この霧ヶ峰高原でした。車山スキー場からリフトで上がり車山を越えて、反対側の未知の高原に滑り込んで行ったのです。

深い雪に膝ほど埋もれ、滑り込んだ高原のあまりの美しさに目を見張りました。人を容易に寄せ付けない険しいアルプスの雪の山々とは、また異なる、何とも言えないたおやかな雪景色に、日本にもこんな美しい場所があるのかと感嘆しました。その折に、ふと谷間を見ると小屋があることに気が付いたのです。

しかし、そのころの私には、ただただその広い高原をスキーで滑り、登り、歩き回ることに気が行ってしまい、その山小屋への興味は、それ以上のものにはなりませんでした。月日が流れ、多くの山々を巡り、年齢を重ねて、あることを切欠として、山岳ガイドと言う職につきました。この仕事では、自分が山の頂に立つことが目的でもなく、その頂きに立つことが喜びでもありません。

山慣れぬお客様に、美しい山の自然に巡り合ってもらうこと、そして、お客様が喜びを感じることが目的となったのです。そのような職につき、お客様を案内する時に、頭の片隅に、若い頃見た深い雪の中に埋もれていた谷間の山小屋が、なぜか蘇ってきたのです。そして、初めての宿泊以来、四季を通じてこの麗しい山小屋に訪れることは、私の定番のコースとなったのです。

Die beste Gebirgshutte

社団法人日本山岳ガイド協会理事

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