霧ケ峰、ジャヴェル、そして私 沢田裕広さん

四季を通して霧ケ峰に出かけるようになったのはいつの頃からだったろうか。奥多摩の山々を自らのフィールドとして歩き回っていた頃に仕事の帰りによく立ち寄る本屋で「アルプ」を見つけた。ちょっと贅沢に上質紙を使い、中身といえば山のことばかりである。

しかも広告がひとつもない、なんともユニークな月刊誌であった。尾崎喜八、串田孫一の名前に出会い、辻まこと、畦地梅太郎の存在を知った。そして尾崎喜八の作品の中にジャヴェルという言葉を見つけたが、同名のヒュッテが霧ケ峰にあろうとは露知らないことであった。

古い記憶が順番にぼんやりしてくる中でも妙に鮮明に覚えていることが幾つかあると思うが、初めて歩いた霧ケ峰もそのひとつである。

高原への第一歩は初夏の和田峠からであった。いつになく歩みが遅かったのは、ザックに詰め込んだ夜行列車の寝不足ではなく、峠に覆いかぶさるように蹲った鷲ヶ峰の大きさのせいだったかもしれない。白く明けてゆく空の下を黙々と辿った山裾の道、飛び出した八島湿原は朝の顔で迎えてくれた。

草の葉に宿った水玉を朝の光が金色に染め、幾つもの池塘は鏡のように輝いていた。湿原の向こうには複雑にうねった緑の丘が幾重にも続いている。朝の斜光を受けた緑の帯は微妙な変化を見せており、これを塗り分けるだけの絵の具はどんな立派な絵の具箱にもきっと見つからないだろう。

春分を過ぎて日脚が長くなり日増しに暖かさが感じられるようになると高原の雪解けが始まる。あちこちに斑模様が生まれ、さながら乳牛の背中を見ているようである。沢沿いの雪を分けて坐禅草が顔を出すのもこの頃である。

やがて、蓮華躑躅が明るい朱色の髪飾りで高原を彩ると夏が始まる。ニッコウキスゲが染め上げた黄金色の高原には生気が漲り、真っ白な積乱雲が力強さを添える。ヤナギランの桃色は一瞬の夢と過ぎ、マツムシソウの薄紫が秋を連れてくる。

朝夕をひんやり感の中で過ごすようになり、ぐるりと高原を取り巻いた山並みが水色を濃くする。透き通った風が高原を亘り、少しの寂しさがそっと後を追う。

書物での机上登山を強いられる時期があった。そしてそれは山に対する考え方を見直す機会でもあった。先人の踏み跡を辿り分厚い古典にもまみえることもできて自分なりに造詣を深められたような気がする。

山や麓の歴史に興味が広がり何がしかの知識を持って出かけるようになると、高さを求めコースタイムを気にすることに頓着しなくなっていた。尾崎喜八と高橋達郎さんとの交遊のこと、その機縁でジャヴェルの名がつけられたことを知ったのもこのときである。

地形図「霧ケ峰(2万5千分図)」を俯瞰して頂きたい、ヒュッテのある沢渡が高原の臍の位置にあることがお分かりになると思う。ヒュッテ・ジャヴェルは霧ケ峰探索には打って付けのベースである。山の書物を読み地形図でポイントを定めて計画を練る。

現地に入ってから仕上げにジャヴェルで高橋さんからアドバイス受ける。通り過ぎるだけでは分からない山の良さを知ったのもここでの経験からである。山菜取りの踏み跡を拾いながら登ったガボッチョには、嘗ては石組みのスキーのジャンプ台があったことを、更にその昔には牧草を搬出する道が茅野へ続いていたことも知ることができた。

歩き疲れてのコーヒーブレイク、雨音を聞きながらのクラシックの小品を楽しむひと時、そして書棚には絶版となって久しい山の名著がぎっしりと詰まっているのである。

3月末の高原はまだ白一色であった。翌朝早起きして車山の肩まで登った。氷点下10度は顔が引きつる感じがするが寒さはそれほどではない。締まった雪に登山靴が鳴る。蓼科山の背後から昇る朝日が雪原にわが身の影をつくる。

待つこと数分、西の空を水色に区切っていた北アルプスの連嶺が桃色の色づき、瞬く間に斜面を駆け下りる。穂高が、槍が、常念が・・・モルゲンロートがやがて白いスカイラインに変わる頃には足長小父さんのような影もいつの間にか足元に蹲ってしまうのである。

「『同人誌、YSO』の同人」

タイトルとURLをコピーしました