春から秋にかけての何度かを私は郷里諏訪を訪れます。 便利になった現在は車を霧ガ峰へと向け、高橋夫妻の守るヒュッテ ジャヴェルへも顔を出します。そして春と秋親しい友を誘ってジャヴェルの音楽会に出かけます。
子供の頃の霧ガ峰は近くて遠い所でした。 小学生時代の遠足で高原を歩いたのですが、疲れ果てたこと。年輩の教頭先生が体に効くと言ってサンショウウオを丸呑みにした光景だけが記憶に残っています。
そして中学生の秋、一人高原にやってきた私は薄紫の凛として上品な花が何故か気に入ってしまい根ごと掘り起こし家に持ち帰りました。家の西、軒端近くに植えましたが根付くことなく枯れてしまいました。そのときは名も知らなかったマツムシソウでした。
この花を別名輪鋒菊と呼びマツムシソウの由来が旅の僧の持つ、たたき鉦(がね)であることを知ったときはまた驚きました。 霧ガ峰に風変わりな名前のヒュッテがあることはヴィーナスラインができて以降八島湿原や車山を訪れる度に気になる存在として思いつづけていました。
その思いを決定づけた二冊の本があります。尾崎喜八著「あの頃の私の山」、串田孫一・鳥見迅彦編著「友へ贈る山の詩集」、色あせた二冊の本を読み返しながら、時々の山旅を楽しんできました。
作品「霧ガ峰紀行」はジャヴェル命名の由来やオーナー高橋達郎氏との友情、そして慕わしい霧ガ峰の自然が美しく行き届いた文章で書かれています。そして終わりに次のように結んでいます。
「それにしてもこの大きな広がりと美しい寂寞との中を、ただ二人行く私たちの姿が何と孤独だろう。三十幾年を試みられ洗いざらされた愛の感情と、日の光や雨のように単純で天然の滋味を持った互いの思いやりと心づかいとー。」 おとずれるジャヴェルでのひとときに書棚の尾崎喜八や霧ヶ峰をはじめとする山の本を開くのも楽しみのひとつです。
又、ジャヴェルでの宿りの朝、食事前の2時間ほどを蝶々深山や八島湿原まで足を延ばせば霧ガ峰が最も自然な姿を見せて私たちの前にあります。 湿原の南にはすり鉢状に開けた斜面に草に埋もれた土壇を残す旧御射山(もとみさやま)遺跡があります。
鎌倉時代に信濃の武士団が鎌倉武士を招き諏訪社の分社として一大弓技大会を行なった祭りの跡と聞きます。御射山祭りが最も盛んであった頃を伝える歌も残されています。
尾花ふく穂屋のめぐりの一むらにしばし里あり秋の御射山 金刺盛久(玉葉和歌集)
信濃なる穂屋の薄もうちなびき御狩の野辺を分くるもろ人 宗良親王
霧ガ峰が最も華やぐ夏はもとより薄の穂が白く流れる十月の高原は同行した人たちの最も感動した一日でした。 樅の木とウリハダカエデに守られて半世紀余り高橋夫妻の飾らない人柄がこのヒュッテには似合っているようです。
「登山を趣味とし詩歌を愛し、短歌結社『やどりぎ』在籍」