車山の中腹に友人と相談して小さな山小屋を建てたのは1980年代初めのことである。それ以前は、毎年夏になると、リュックに本を詰めて乗鞍岳の長野県側にある番所にでかけ、農家の一部屋に間借りし、夏の間本を読んで過ごした。
しかし、大学院を終えて東京の大学で教鞭を執るようになり、結婚して子供ができると、農家に間借りというわけにはいかなくなった。二夏ほどは東北の湯治場で過ごしたこともあったが、やがて親友の一人が車山の別荘地の情報を持ち込んできたので、相談のうえ山小屋を建てることにした。
こうして、車山が私の新しい夏の居場所になった。やがて、夏だけではなく、四季を通じて車山を訪れる様になり、スキー場から、乗越し、車山湿原、喋々深山や二つの耳を経て八島にいたる霧ヶ峰高原が、私の散歩道になった。高原はほぼ全体が草の海に覆われ、草木は四季折々の花をつけ、花には色鮮やかな喋が集い、上空にはいつもさわやかな風が吹きわたっている。
冬ともなれば、草の海は一面の雪野原に変わり、広大な空間を隔てて八ケ岳、南アルプス、中央アルプス、北アルプス、浅間の峰々が、巨大な白い額縁のように視界の周縁を飾っている。広々とした稜線からおりて、先ほどまで郭公の声が聞こえていた深い林のなかに踏み入ると、そこは木漏れ日だけの静寂の世界で、自分と自然との距離が一挙に近づいた不思議な感覚に襲われる。
私は社会科学を専門にしており詩人ではないが、一人で霧ヶ峰を逍遥しながら、高原を走りすぎる風の行方にアルプスの山稜を眺め、草の海を思いがけない速さで渡ってゆく雲の影を追っていると、霧ヶ峰を縦横に歩いてこの広大な自然を謳歌したかつての詩人たちの感慨の一端が感じ取れる気がしてくる。
しかし、現在の私にとって霧ヶ峰は、単なる高原の散歩道ではない。霧ヶ峰を私にとって他に代え難い特別な場所にしているのは、ヒュッテ・ジャヴェルとそのオーナーである高橋保夫・早智子さんご夫妻の存在である。
四季を通じて霧ヶ峰を歩くようになったある年の夏、八島からの帰路に沢渡りで小さな標識を目にした私は、しばしの休息と一杯のコーヒーを求めて水沿いの小道を上り、ジャヴェルの玄関に足を踏み入れた。それが高橋さんご夫妻との最初の出会いであった。
小屋の前には清流が心地よい音をたてて流れ、スイスのシャレーを思わせる小屋のテラスには赤い花が置かれていた。以来、ヒュッテ周辺の静かなたたずまいとご夫妻のあたたかな人柄に魅かれて、八島周辺を訪れるたびにジャヴェルに立ち寄るようになった。
その都度、保夫さんからは、霧ヶ峰の草花や地史、山行やスキー、若かりし頃のドイツ滞在、南極越冬、小屋を訪れた登山家や文人達にまつわる貴重な話し、さらに父君から受け継いだ由緒ある山小屋を管理する楽しみと苦労を伺った。
特に、外が雪に覆われてトレッカーの気配も消えた冬の午後に、大きなまきストーブの傍で話し込んでいると、思わず時が過ぎるのを忘れてしまった。そんな折の保夫さんの話しぶりからは、霧ヶ峰とジャヴェルへの深い思いと愛着がしみじみと感じられた。
私は、ジャヴェルの変わらないたたずまいと高橋さんご夫妻の末長いご健在を心から祈念しているが、正直を言えば、それはジャヴェルが私にとっていつまでも特別な場所であり続けてほしいという密かな利己心に発しているのである。
「中央大学名誉教授」